2008年12月30日

巴里のニッポン人

12月13日土曜日。唐突に思い立って、『レオナール・フジタ展』へ行きました。
藤田嗣治のことは白い肌の人物画と、早い段階でパリで成功した稀有な日本人画家であったこと、おかっぱ頭とちょび髭ロイド眼鏡の風貌、それと猫を抱いた有名なポートレイトくらいしか知らないにも拘わらず作品展へ行ってみようと思ったのは、今回パリの倉庫で発見された「幻の群像連作」が日本で最初で最後の公開という宣伝文句と、フランスで早くから評価された画家の作品に興味があったからです。

限りなくゼロに近い知識の状態で見たフジタの作品は、「すばらしき乳白色」と評された通り陶磁器のように透き通るほど白い肌と、がっしりとした肉体のギャップに奇妙な違和感を覚えました。
印象に残ったのは『腕を伸ばした大きな裸婦』(前期のみ展示)という色の付けられていない『仰臥裸婦』という作品の習作で、中空に浮いているように寝そべる裸婦が画面上方に描かれた構図にハッとしました。『仰臥裸婦』にはソファも描かれ色も付いているのですが、それよりもこの習作に不思議な魅力を感じ、女性の神秘性までもが描き出されているようで、とても興味深かったです。
また人物が一切描かれていない風景画も何点か展示されており、どれも強く惹かれました。色彩的にも人物画に見られるような明るさはなく、暗く重い雲が立ちこめる日常を切り取った風景画は、画家のもう一方の面を知るようで心に残る小品ばかりでした。
「すばらしき乳白色」に対する違和感は、件の連作で決定的となります。縦横3メートルの連作『ライオンのいる構図』『犬のいる構図』と『争闘T』『争闘U』。様々な人種の裸の男女が横たわったり座ったり、寄り添ったり闘ったりしています。一説にはミケランジェロのシスティーナ礼拝堂壁画にインスパイアされたとか、様々なオマージュや画家の試みなど作品の意図をガイドで聞いた(ような気がした)ものの、忘れました。この圧倒的な大画面を前に思考は停止しました。この違和感はなんだ…?と考えようとしても、眼から入ってくる情報に圧倒されて考えはまとまらず、混乱し、自分なりの整頓と納得をしない(できない)まま絵の前から去らざるを得ませんでした……なんとなく敗北感。

フジタが常に女性と猫を愛したことは有名ですが、今回展示されている墨で描かれた『猫』という作品は持って帰りたいほど素晴らしかったです。画家は「ライオンは飼えないから」猫の中にある野生の獰猛さを愛したと語っていますが、エサを巡って争うたくさんの猫たちが6面に描かれ、その活き活きとした動きと表情の豊かさ、猫に対する(ひいては生命に対する)愛情が得も言えぬ幸福感を与えてくれました。
これは本当に素晴らしかったです。持って帰りたかった…

展覧会へ行ったあと、TVでフジタを取り上げた短い番組を見ました。彼が日本へ戻り、60歳を過ぎて何故フランスへ帰化したかを知りました。
「自分が祖国を捨てたのではない。捨てられたのだ」と語った藤田嗣治がレオナール・フジタとなった経緯を思うと、日本人として恥じ入るばかり…そのときの画家の心情はいかばかりだったか。
フランスへ帰化してからカトリックへ改宗し、宗教画を多く描くようになったフジタ晩年の作品が、会場の階段を上ると展開されます。再現したアトリエや絵付けした皿や木箱、タイルといった展示が続き、子供たちに温かい眼を向けながら、神への祈りと心の平静を求めた画家晩年の姿を垣間見ます。宗教画の数々は前半の作品とは違った、迷いのない真っ直ぐな力強さを感じました。時間の都合で後半は駆け足で観ざるを得ず、フジタが渾身の力を注いで作った「平和の聖母礼拝堂」のフレスコ画やステンドグラスの数々をじっくり観られなかったのは残念でした。

前半と後半の雰囲気が全く異なる作品群から、人間が求める真理の道筋が1本通っていることを発見する展覧会でした。

『レオナール・フジタ展』  11月15日〜09年1月18日  上野の森美術館
posted by セーフ at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 躍るアート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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